アタックスの翻訳プロジェクト (Translation of "Attucks!")

 

このプロジェクトは"Attucks!: How Crispus Attucks Basketball Broke Racial Barriers and Jolted the World Attucks!: How Crispus Attucks Basketball Broke Racial Barriers and Jolted the World" by phillip Hoose を日本語に翻訳して、この物語を日本の方にも是非読んでいただきたいという気持ちで始めたものです。

1960年代のNBAのスーパースター、オスカー・ロバートソンの生い立ちと高校時代のお話しです。

著者(フィリップ・フーズ氏)と出版社から許可をもらい、日本語に翻訳しました。もっか、日本語版の出版先を探しています。出版にご興味のある方、あるいは、日本語で読んでみたいと思う方は畑佐一味(パデュー大学名誉教授、khatasa@purdue.edu)にご連絡ください。

フーズ氏の前書きの翻訳は以下です。

 

著者からの言葉

 オスカーの主張

 白人達は彼に才能があることはわかっていました。しかし、その白人達が知らなかったのはオスカー・ロバートソンが、多くの黒人アスリート達の心をつかむ特別な能力を持っていたことでした。オスカーはインディアナポリスのクリスパス・アタックスと呼ばれる黒人だけの高校の主力選手として、チームを1955年と1956年に州選手権大会優勝に導きました。インディアナでは州の選手権大会は全国大会と同じ意味を持っていました。そして、それまでの大会は圧倒的に白人だけのものでした。しかし、この優勝のことはインディアナ州に足を踏み入れたことのない何千人もの黒人達でさえ知っていました。
—デイビッド・ハルバースタム、The Breaks of the Gameから

 私はインディアナ州スピードウェイ地区で育ちました。インディアナポリス市の一部で、ホワイト川にかかっている16番通りの橋の西側です。(名前の由来は地区の中心にあるインディアナポリス・モーター・スピードウェイです。)1956年に引っ越してきたとき、スピードウェイの人口は11,000人ほどでしたが、住民はバートンさん一家を除いて、すべて白人でした。バートンさんの娘、エベリンは同級生で、4年生のクラスで一緒でした。ほっそりとしていて、背が高く、甲高い声で笑い、遊び場で縄跳びをするのが好きな女の子でした。私は彼女にとても興味を持っていましたが、話しかける勇気はありませんでした。どうして彼女はここに住むようになったのだろう?肌の色が黒いことをどう感じているのだろう?彼女と話すのはどんな感じなのだろう?彼女は僕たちについてどう思っているのだろう?
 16番通りの橋を渡った東側、つまり、インディアナポリス側にはさらに大きな謎がありました。「市内のすべての黒人の子供たちが通った学校」があると言われていました。奇妙な名前でクリスパス・アタックス(Crispus Attucks)といいました。でも、私たちは皆「クリスマス」と呼んでいました。ばかにするつもりはなく、本当にそれが名前だと思っていました。スピードウェイの住民はだれもこの学校がどこにあるのか知らないようでした。聞いたところでは、野球場のそばの16番通りの南側のどこかで、それほど遠くではなかったようでした。
 土曜日になると、父は私たちをダウンタウンに連れて行ってくれて、デパートで買い物をしました。ホワイト川を渡って、街の中心部に近づくと、荒れて、今にも倒れそうな家ばかりの地域を通り抜けました。その地区の子供達は私たちと同じように、家の前の庭を走り回っていましたが、彼らはみんな黒い肌をしていました。車の窓から外を眺めながら、私はエベリンについて疑問に思ったのと同じようなことを考えていました。彼らの遊びは私たちと同じなのだろうか?テレビを持っているのだろうか?同じような番組を見るのだろうか?幸せなのだろうか?僕が車から飛び降りて、走り寄って一緒に遊んでみたらどうなるのだろうか?僕の町のほとんどの人が白人なのに、どうしてこの地域の人はみんな黒人なのだろうか?
 スピードウェイで私たちがアフリカ系アメリカ人と実際に接触したのは、インディアナ州の高校バスケットボール選手権大会の時だけでした。スピードウェイ高校はアタックス高校と同じ地域に所属していて、時々対戦しましたが、私たちが勝ったことは一度もありませんでした。アタックスチームは伝説でした。アタックスは、私たちがスピードウェイに引っ越してくる1年前の1955年に、州の高校選手権大会で優勝し、700校以上のチームの頂点に立ちました。優勝チームのスター選手だったオスカー・ロバートソンは、インディアナ州で史上最高のバスケットボール選手であると言われていました。彼のことは常に話題になっていました。オスカーの影響力は絶大で、インディアナポリスで一番有名な人物だったでしょう。高校を卒業してインディアナポリスを離れ、シンシナティに住むようになってから3年たった時でさえ、新聞の世論調査は、オスカー・ロバートソンがインディアナポリスで最も称賛されている人物であると結論づけています。
 その後、私はインディアナポリスから米国東海岸に引っ越していましたが、1986年にSports Illustrated誌から、インディアナがどうしてあんなにもバスケットボールに夢中になったのかその理由を探る記事を書いて欲しいと頼まれました。取材のために、何十人ものコーチや選手、歴史研究家や新聞のコラムニスト、そして、チアリーダーやファンにインタビューしました。しかし、私が他の誰よりもしたかったインタビューが一つありました。それは、大学からNBA時代を通して偉大なプレーヤーとなった「ビッグ・オー(Big O)」ことオスカーロバートソン氏とのインタビューでした。オスカーは、シンシナティにある彼の弁護士の事務所でインタビューを受けることに同意してくれました。かつて私の好奇心をかき立てた不思議な学校、クリスパス・アタックス高校について、そのころの様子を、たっぷり3時間、語ってくれました。

 その時の会話の一つが本書を書くきっかけになりました。

オスカー:「あのね、クー・クラックス・クラン(KKK)が私たちの学校を作った時、彼らは自分たちが何をしているのか本当には理解していなかったんだよ。」

私:「それはどういう意味ですか?」

オスカー:「彼らはアタックスを黒人だけの学校にすることで、彼らが予測できなかったことをしてしまったんだ。私たちが勝ったので、インディアナポリスの街は人種統合されていったんだ。優秀な黒人選手がみんなアタックスに入った。その結果、私たちは試合に勝った。でも、他の学校のコーチ達はそれが気に入らなかったんだ。そして、その後、多くの黒人の子供たちが他の学校に通い始めたんだ。」

 オスカーは一体何の話しているのだろう?北部の大都市の高校がクー・クラックス・クラン(KKK)によって作られた?そして、バスケットボールチームがその街の人種統合をした?
 オスカーはいたってまじめに話していました。
 それは本当の話なのだろうか?

 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士は、公民権運動を振り返って、「恐怖という覆いは、黒人の若者達によって取り去られた」と言っています。人種的正義のためにさまざまな形で犠牲を払った若者の例はたくさんありました。1951年、バージニア州ファームビルの高校3年生、バーバラ・ジョンズは、過密な建物、壊れた机、質の悪い文具などに抗議するために、クラスメートを(黒人のみの)学校から連れ出しました。1955年3月、有名なローザ・パークスの事件のほぼ1年前に、アラバマ州モンゴメリーの9年生だった15歳のクロデット・コルビンは、公共バスの座席を白人の乗客に譲ることを拒否し、法廷でバスの人種分離法に異議を唱えました。2年後、軍の警備隊によって守られた9人の学生が、アーカンソー州リトルロックのセントラル高校に最初のアフリカ系アメリカ人として入学しました。同様の事件のリストはまだまだ続きます。
 しかし、このような後の変化をもたらす行動がすべて南部の州で行われていたわけではありません。そして、すべての事件で衝突、放水砲、軍隊、法廷、または警察犬を使った攻撃があったわけでもありませんでした。
 詳しく調べてみると、オスカー・ロバートソンが私とのインタビューの中で示唆したように、黒人男子生徒のバスケットボールチームの台頭は、アメリカのある主要都市の歴史の中で最も記憶に残る公民権運動の一部であることがわかりました。クリスパス・アタックス高校が起こしたうねりは、インディアナポリスの黒人、そして多くの白人達にとってどれだけの意味があったのだろうか?アタックスが歴史的な勝利を手にした日の翌朝、アフリカ系アメリカ人を読者に持つ地元の週刊新聞Indianapolis Recorderは、次のような見事な説明を掲載しました。

 私たちの州についてよく知らない人は、私たちがこの勝利を神に感謝していることをやり過ぎだと思っているかもしれません。しかし、バスケットボール、特に高校のバスケットボールはインディアナ州では特別な意味を持っているのです。単なる男子スポーツではないのです。多分、それは、私たちにとって、何よりも大切なものなのです。

 

そして、以下が私がどうしてこの本を翻訳したくなったのかについてです。

翻訳によせて

 「Attucks!」の翻訳を手がけることにしたのは二つの偶然が重なったことがきっかけでした。
 まず、そもそも原作との出会いが偶然でした。
 2020年2月の金曜日の午後、大学からの帰宅途中、いつものラジオ局、NPR(National Public Radio, 公共ラジオ放送局)を聞いていました。その日の午後は、インタビュー番組が流れていました。聞き流していると、インタビューの所々にインディアナ州内の聞き慣れた地名や高校の名前が聞こえ、どうやらバスケットボールについての話をしていることが分かりました。地元の高校の名前も出て来ました。そして、今度は「アタックス」という聞き慣れない言葉が出てくる一方、「オスカー・ロバートソン」というとても有名なバスケットボール選手の名前も出てきました。「アタックス」は「attacks (攻撃する)」なのかと思い、よく分からなかったのですが、記憶に残りました。
 インタビューされていたのは原作者のフィリップ ・フーズ氏でした。毎年2月はアメリカではBlack History Monthで黒人の歴史を考える月になっています。その関係でこの本も取り上げられ、インタビューが放送されていたのです。
 私はインディアナ州にあるパデュー大学で1988年から日本語や日本文化について教えていますが、インタビューで取り上げられていた話のことは全く知りませんでした。恥ずかしく思い、早速注文しました。
 二つ目の偶然はこの本がバスケットボールの物語だったことです。私はバスケットボールを中学で始めて、高校・大学ではバスケットボール部に所属して、毎日練習に明け暮れる7年間を過ごしました。オスカー・ロバートソンが現役プレーヤーだった時は知りませんが、名前はもちろん聞いたことがありました。その人が、車で一時間ほどのインディアナポリスで高校に行き、プレーヤーとしてのキャリアを始めたことは全く知りませんでした。さらに、そこで起こっていたことが、後の黒人の公民権運動につながっていることにも無知でした。インディアナ州はKKKの州で、酷い人種差別があった州であることは知っていましたが、その中でのアフリカ系アメリカ人達の戦いの歴史は知りませんでした。大学町に長く住んでいることであからさまに人種差別的な扱いは受けた経験はないので、人種問題を身近に感じていなかったと言えるでしょう。これも、恥ずかしいことでした。
 ジョージ・フロイド氏の事件が発端になったBLM(Black Lives Matter)で、人種問題が大きく表面化し、昨今のアジア人に対する襲撃事件など、まだまだ人種差別の火種は燻っています。
 このような背景が、背中を押して、この本を日本語に翻訳して多くの日本人の方に読んでもらいたいと思うようになりました。また、これまで仕事との接点がなかったバスケットボールと仕事が初めて関連づけられる可能性が見えたことは個人的には喜びでした。そして、大学時代のチームメートで、友人の倉石平氏(早稲田大学

教授、元全日本バスケットボール監督)が翻訳に賛同し、バスケットボールに関する記述を監修を引き受けてくれたこともとても嬉しかったです。
 著者のフィリップ ・フーズ氏は私から突然届いたメールに丁寧に対応してくださいました。私がインディアナ州の大学教員だったということもあり、日本語翻訳のオファーを快諾していただき、有り難かったです。
 日本の皆さんがスポーツをテーマにした物語を通じて、普段あまり考えることがないかもしれない人種問題について考え、理解を深める機会になれば幸いです。

                 インディアナ州ウェストラフィエットにて、
                       パデュー大学名誉教授 畑佐一味

 

Crispus Attucks High School

1140 Doctor M.L.K. Jr St, Indianapolis, IN 46202

 

クリスパス・アタックス高校の校舎は1927年の開校当時と同じ建物です。The outside has not changed since 1927.



   


建物の中 (Inside) 

廊下には各年度の卒業生の写真が飾ってあります。右の写真は表玄関を入ったところです。
The main corridor and the front entrance

 

1928年と1956年の卒業生の写真(1956年にはオスカー・ロバートソンがいます。探してみてください。正解はこのページの一番下にあります。)
Classes and 1928 and 1956. (Mr. Oscar Robertson is in the 1956 photo. Can you find him?)

 

現在の体育館。欠番になっている番号が飾ってあります。
The current gym

 

舞台は1950年代と変わっておらず、体育館がなかった頃のアタックスはこの舞台の上で練習していました。現在も講堂として使われています 。
The stage has not changed since 1950s. This is where Attucks practiced basketball.

高校の中にBasketball Hall of Fameのスペースが作ってあります。

  

  

1955年、1956年の優勝トロフィー

  

Crispus Attucks Museum 

学校の建物に併設する形でクリスパス・アタックス博物館があります。学校の歴史が展示されていますが、1950年代のバスケットボールでの活躍が大きな部分をしめていました。 とても親切な館長さんが丁寧に説明してくれました。
This is the Crispus Attucks Museum attached to the high school building. The curator of the museum, Robert.

  

ショーケースの中には「Attucks!」の原著もちゃんと入っていました。

 

左はコーチのレイ・クロウの展示。真ん中はオスカー・ロバートソン。ビデオではカリーム・アブドル・ジャバーら往年の名選手がロバートソンについて話していました。右は1956年の優勝チーム。決勝戦も20点の大差をつけています。
The panel on Ray Crowe, Interview videos of Kareem Abdul-Jabbar on Oscar Robertson, The winning team of 1956

  

アタックスのスタジャン。大きなAの文字が印象的です。ビデオはロバートソンのインタビューでした。

 

今回の見学実現のために館長さんにつないでくれたハリスさんと。

 

正解:1956年の卒業写真、下から二段目の左から四人目の写真がオスカー・ロバートソンです。目がクリクリッとしています。

 

Photographed on 10/12/2021 by Kazumi Hatasa, khatasa@purdue.edu

 

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